インタビュー

ドコモの3G「FOMA」と「iモード」が本日31日終了――歴史に残るサービスはどう始まったのか

 2026年3月31日、NTTドコモは「iモード」と「FOMA」を終了する。

 1999年2月22日に始まったiモードは、携帯電話から利用できるネットサービスであり、開始からまたたく間に多数のコンテンツが登場し、数千万人に利用されたサービスだ。

iモード第1号機の携帯電話である「F501i HYPER」(富士通製)

 その2年後、2001年10月1日に、第3世代(3G)の携帯電話向け通信サービスとして「FOMA(フォーマ)」が登場。しかし、2G(サービス名はmova、ムーバ)にも繋がるような携帯電話はまだ登場しておらず、限られたエリアで開始当初は苦戦が伝えられた。

 どちらも同日に幕を閉じることになったが、サービス開始当初は同じドコモ社内でも、やや対照的な立ち上がりと言える形だった。

 いよいよその両サービスが終了するとあって、本誌では今回、その立ち上げに関わった人々にインタビュー。FOMAについては、その基地局開発に関わったという引馬章裕氏(現在はドコモ執行役員、ネットワーク本部長)に、そしてiモード立ち上げに関しては吉田裕之氏(現在はドコモCSコンテンツ・ライフスタイル支援事業部担当部長)、二宮靖子氏(現在はドコモカンパニーファイナンス部総括担当)に聞いた。

左から引馬氏、吉田氏、二宮氏

 FOMA、iモードどちらもたびたびキーパーソンがメディアに登場し、その内幕が明らかにされてきた。特にiモードは、たとえばiモード立ち上げを牽引した1人である松永真理氏の著書「iモード事件」でも、さまざまなエピソードが紹介されていた。同じくiモードをリードした夏野剛氏(現KADOKAWA代表執行役社長)からも、「ポジティブフィードバック」などiモードに関わる戦略なども披露されてきた。

 今回は、そうしたエピソードのすぐ近くにいた人々が、iモード、そしてFOMAの立ち上げ期にどんな風景を見ていたのか、ご紹介したい。

1999年2月のiモード開始、2001年のFOMA開始に向け

――まずは、当時の皆さんがどういった関わり方をされていたのか、教えてください。

引馬氏
 私は、FOMAで無線技術系の開発に携わっていました。元々、1995年に入社した後、2G(第2世代の携帯電話向け通信規格)の業務に就いていたんです。いわゆる維持・管理です。その後、たまたま海外での研修に参加したんですが、ちょうど3GPPという業界団体(3G以降の携帯電話向け通信規格の標準化を進めた団体)が立ち上がるタイミングです。

引馬氏

吉田氏
 私はいわば、iモードの技術系営業でした。入社直後は、携帯電話のシステム開発に携わり、その後、ポケベルに関わりました。そのあと、異動して、「今度は双方向で情報配信をやる部署」と聞いていました。

二宮氏
 1995年に当時のNTTドコモ北海道に入社し、iモードが始まる約1年前、1998年にゲートウェイビジネス部というチームに参画しました。こんな企画があるよという資料を見て「行きたいです」と手を挙げたんです。

傍流だったiモード

――当時、iモードは、ドコモ社内で左遷と言いますか、本流ではないと言いますか、そういう捉え方をされていたという話も聞いたことがあります。

二宮氏
 私自身は、配属後、榎さん(榎啓一氏、iモード開発チームだったゲートウェイビジネス部長、その後ドコモ東海社長など)だったり、夏野さん、松永さんとお話する機会があって……皆さん、本当にプレゼン上手で、世界がガラッと変わりました。ネガティブなことはほとんど感じたことがなく、仕事が本当に楽しかったですね。

――当時は、どんな業務に携わられていたんでしょう?

吉田氏
 iモードという事業がちょうど立ち上げる時で、当時のいわゆるコンテンツプロバイダーさん、iモード上でコンテンツを出していただける可能性のある企業に打ち合わせに行って「こういう準備していただけませんか」ということに従事していました。

 夏野さんや、笹川さん(現岩井コスモホールディングス代表取締役社長COO)らと一緒に外を回り、ビジネスの話が進められる一方で、私は接続とか技術的な話をすると。

 いわゆる技術営業と言えるでしょうか。iモードコンテンツの作り方ですとか、当時あった「マイメニュー」へ登録するための仕組み、あるいは課金の仕組みですとか……仕様書を持っていって「こういう風に作ればできます」というのをレクチャーするというか、当時はコンパクトHTML、CHTMLという軽いタイプのHTMLがあり、その仕様の解説などに取り組みましたね。

吉田氏(左)と二宮氏(右)

二宮氏
 松永真理さんと一緒に働いていましたね。プロモーションとして、展示会への出展、キャンペーンの実施から、パンフレット・ノベルティ作りまで……思いついたものからどんどん手がけていくようなチームでしたよ。私自身は、ノウハウがない若手で、指導してもらいながらすごく自分はのびのびとやらせてもらった記憶があります。

2002年に本誌へ加入した筆者は知らなかった、iモードのオリジナルキャラのぬいぐるみやストラップも制作されたという

 そういえば、1999年、スイスで「Telecom '99」という展示会が開催されました。iモードチームのメンバーが交代で説明したんですが、当時、現地では通信できなかった。そこで、画面メモ(iモードケータイのスクリーンショットのような機能)を使い、「こう押すと次の画面に変わる」「こんなサービスなんですよ」「日本では、これだけのユーザーに利用されています」と説明していきました。

 「どうしてWAP(CHTMLとは異なる、携帯電話向けのWebサイトの規格)じゃないの?」と質問が多く、「これを使うことでコンテンツプロバイダーさんが参入しやすいんです」とか「軽いんですよ」と説明してましたね。

ユーザーとの接点とコンテンツ戦略

――手応えがあった出来事、あるいは強い印象が残る思い出はありますか?

二宮氏
 iモードのユーザー数が200万人を突破した時、お客さまを米国のユニバーサルスタジオへ、抽選でお招きしたことがあったんです。当時の私たちが、実際にお客さまと接することはなかなかなかったので、面白かったという記憶がありますね。

 ユーザーインタビューもやりましたし……手の空いてる人に、何でもかんでもどんどん仕事が回ってきて、毎日、夜遅くまで働いていた記憶があります。榎さんが夜、お菓子を買ってきてくれたりとか……。

――iモード対応の携帯電話は、今回、こちらに持ってきていただいた「F501i」が最初の1台でしたね。

二宮氏
 iモードメールも特徴のひとつにしていて、当時は「1円からメールができる」というコピーもありました。

――それより前は1通10円(10円メール)でしたよね。

二宮氏
 「お客様の反応を見て何をどう売っていこうか」といったことは、松永さんがよく話していましたね。

 (二宮氏の手から、iモードを題材にした雑誌が取り出され……)夏野さんが、「ゲームの攻略本みたいなのがあったら面白いよね」と言っていたんです。

 そこで、“iモードを攻略する”という切り口で作ったソフトバンクパブリッシング(現在のSBクリエイティブにつながる企業)さんとやらせていただいて、松永さんと私の名前も添えて作りました。発案は夏野さんですけど、編集は松永さんがいろいろ携わって、私が校正するといったものでした。

奥付に松永氏、夏野氏とともに二宮氏の名前も

 iモードでは、コンテンツプロバイダーさんたちをビジネスパートナーとして「共にやっていきましょうよ、互いにメリットがあります」と取り組みました。これって、当時のNTTにとっては珍しい取り組みだったのかなと感じています。社員も同じように夢を見ましたね。

 今でも、(iモード開始日である)2月22日になると、1年に1度、榎さんや夏野さん、松永さんをはじめ、iモードに関わった人たちによる会があるんです。最初はクローズドで内輪だけでやってたんですけど、今やもう誰が来てもいいよという風にしていて。

――そういえば、前田義晃社長も、iモード部隊に途中で加わったそうですよね。今年のMWCで取材した際、職業人生としてiモードを振り返るとどうでしたか? と質問したところ「ビジネスパーソンとしてここまで成長できた、その核はiモード。いろいろな機会をもらえたし、見せてもらった。その時に身につけた考え方が、今もいろいろなことを考える時のベースになっています」と。

吉田氏
 交渉がすごく上手だったという記憶があります。相手の話をしっかり聞いて立てつつも、こちらが伝えたいことをきちんと伝えて、目指すところへ着地させる。さすがだと感じたことを覚えています。

FOMA/3Gの立ち上げ

――1998年からの「iモード」側の現場の動きを、吉田さんと二宮さんに聞いてきたわけですが、そのiモードは2GのPDC方式上で始まったものでした。そして2001年に3GのFOMAが始まるわけですが……。

引馬氏
 私自身は、1995年に入社したんですが、PDC方式の維持管理を担当しました。YRPで試験が終わったファイルを全国の設備に導入したり……。

 その後、1998年の3GPP立ち上げに参画し、3GPPの1回目の会合や、その直前の会合に参加していたんです。3GPPとしての最初のスペックを、当時、当社の中村(武宏氏、ドコモのチーフ標準化オフィサー)らと一緒に作るところから関わっていましたね。

 帰国後には、実際に3Gの開発を進めて商用導入に従事し、さらにその後、どうサービスエリアを作るのか、というところに関わりました。

 今、ドコモの通信ネットワークの責任者という立場で3Gが終わるタイミングを迎えるわけで、最初と最後までと、縁というべきものをすごく感じています。

――3Gの標準規格を作るというのはどういった内容だったのでしょうか。

引馬氏
 私は、本当に一番下の、レイヤー1に関わっていました。「CDMAの方式がどうだ」とか、「誤り訂正符号はこれがいい」といった話です。実現すれば、周波数の利用効率が高くなる、より大容量のデータが送れるという方式なんだという認識でしたね。

 たとえば、誤り訂正符号とかはドコモの研究所の人たちが日本国内でシミュレーションして、翌日には標準化の会議に提出するといったことをしていて。

 すると対抗する技術の側から、「うちはもっとこんな良いパフォーマンスが出たぞ」みたいな。しのぎを削って戦う、といったこともあれば、途中で仲良くなって合同で提案書を出すといったこともあって……やっぱり技術で競い合っているな、という場でした。

――日本の人口・地理条件というのは、なかなか同様の国・地域がないのかなと思えるところなんですが、そういった特徴を意識した仕様を盛り込むといったことはありましたか?

引馬氏
 新幹線でも使えるぐらいの速度の要件を入れるといったことはありましたが、(日本の条件にあわせるような)そういう話はなかったですね。地理条件にあわせるといったところは、標準化された通信規格を使って、どうエリアを構築していくのか……という話になるでしょう。

――FOMAが始まったのが2001年の10月1日、iモードが始まったのが1999年の2月22日で、2年半ぐらいの差ですね。コンテンツとネットワーク側でコミュニケーションを取ることはありましたか。

引馬氏
 私は基地局の装置を担当していましたから、中のデータは見ずに「01で来たやつを01で出す」だけで、プロトコルの上位レイヤーには全く関与してなかったです。

 一方で、FOMAが始まる時には「テレビ電話」が売りのひとつでした。64kbpsでテレビ電話ができると。

――2G時代は維持・管理を担当していたということでしたが、その2G時代、iモードというコンテンツが盛り上がっていく中で、2Gのネットワークや設備側がドタバタしたといったことはあったんでしょうか。

引馬氏
 トラフィックが増えるだろうといった話はありましたが、もともと第2世代の通信速度は、初期が9.6kbps、その後28.8kbpsでした。3Gで384kbpsになるんですけど、それでも、当時は、やはり音声通話が主でした。

 つまり、設備設計は、「音声がどれぐらい増えるか」というところが軸になっていて、データ通信やコンテンツが、通信設備を圧迫するというところまでは、少なくとも第2世代は全くなかったです。

――3Gになることで、コンテンツ側にはどんな変化がありましたか?

吉田氏
 iモーションという動画コンテンツが登場しましたよね。それまではテキストベースとかアニメーションGIFとかでしたが、動画によって、コンテンツの広がりが出ました。

――iモーション、ありましたねえ……。コンテンツがリッチ化していく3Gの時期を迎えるにあたって、ネットワーク側としては自然な成り行きでしたか。

二宮氏
 お客様自体はネットワークが切り替わったというよりも、端末が進化しているように感じているんじゃないかなと思います。白黒だったのがカラーになってできることが増えていったという……サービス的にも良かったように感じてます。

吉田氏
 ネットワークが進化すると、それに応じて何をコンテンツのバージョンアップに繋げるんだみたいな会話を交わしていたような記憶があります。今までにない新しい価値で何ができるのか、とか。

苦労した初期の「FOMA」

――3Gサービスである「FOMA」の立ち上げはいかがでしたか。

引馬氏
 「世界で一番早くサービスを開始しよう」という合言葉で取り組んでいましたね。ものづくりもグローバルでも先頭を走っていました。

 2Gから3Gへ、端末も基地局も交換機も全て新しいものが登場するわけです。それらをお客さまに利用いただけるレベルにまで引き上げて行くことも大変でした。なにしろ、改善しようにも、どこに原因があるのか切り分けが難しい。

――全てが新しいシステムですもんね。

引馬氏
 それまでの2G、PDC方式は国内だけの規格でした。それが3Gで世界で標準化された仕組みになり、その先頭を走る。大変でしたけど、個人的には楽しかったです。

 最初は都内でも200局ぐらいしか基地局がなかったと思います。電波が繋がらないと怒られました。初期のFOMAが使っていた周波数帯は2GHzです。(PDC方式で利用されてきた)800MHzよりも届きにくいですし……途中から都会も800MHz必要ということで導入しましたね。

――今のスマートフォンは1台で4Gも5Gも繋がりますが、3Gが登場したころは、1台でFOMAとムーバ、つまり3Gと2Gに繋がる携帯電話はなかったですよね。

引馬氏
 そうです。FOMAへ契約を切り替えるとネットワークも新たに構築された3Gのサービスエリアだけに繋がるというものでした。

思い出の1台と今後への学び

――そろそろ時間が近づいてきました。思い出の1台や、思い出の取り組みといったことも教えてください。

吉田氏
 思い出の1台はもうとにかく「F501i」ですね。

 初めて携帯電話のディスプレイ上に文字が表示されているのを見た瞬間が感動的で。三和銀行(当時)がいち早くiモードへ対応してくれたんですが、端末をお渡しして初めてテストしてもらった場面でも、みなさん感動していました。サービスを作っていただけるよう、先に交渉していたわけですが、いわば言葉だけで伝えていたものが、実物になった。本当に出るんですねと。

二宮氏
 私は……壮大な話ではないんですけど、駅のホームで「F501i」を使っている人を見た時に、すごく嬉しかった。「本当に使ってくれているんだ……」って。

 NTTドコモのメインのカタログに、まだiモードが掲載されるかどうか、という時期で、iモードのパンフレットを別立てで用意していた。ワクワクしていたサービスが本当に使ってもらえているのを初めて目にしたのが嬉しかったです。

引馬氏
 3Gはものすごい大きなプロジェクトだったので、ベンダーさんと協議したり試験したり、いろんな人を巻き込んでやっていました。

 当時、パナソニックさんが基地局を納めてくれてたんですけど、人が足りないから、あちこちから人を集めてYRPでずっと試験してくれて。

 あるとき、研究室の先輩が大阪から呼ばれて、「ドコモのYRPに持っていって」と言われたそうで、「誰に持っていけばいいんですか?」と聞いたら「引馬という人に渡してくれ」と。

 後年、再会したとき、その先輩が「僕が、あのとき、基地局を構成するカードを持っていったんだよ」と教えてもらって……いろんな方々を巻き込んで、「世界で一番初めにサービスを開始するんだ」と取り組んでいた凄さを、あらためて感じましたね。

――当時の経験が今にどう活きているか、最後に教えてください。

引馬氏
 何事も産みの苦しみがあるなというのは同じで、3Gのサービス開始は本当に大変だったんです。方式が変わり周波数が変わると電波の飛び方が変わる。各世代ごとに必ず壁にぶち当たって、それを乗り越えてというのを繰り返している感じです。

吉田氏
 新しいことへのチャレンジだったので、仕事もきつかったですけど、本気であればできないかなと思っていたこともできるなという良い経験になりました。この時に当事者としていられたことには運を感じますし、職業人生の中でもすごく良い経験になったと思います。

二宮氏
 私もこの2年が自分の社会人としての運を使い果たしたんじゃないかと思うぐらい一番学びも多く、楽しみも多かったです。iモードのチームを離れた後も、(松永)真理さんなら、これをどう評価するかな? と思いながら仕事に取り組みましたし……。「より良いものを信じて一生懸命取り組む」という姿勢は自分のベースにさせてもらいました。一生懸命やるということと、役に立ちたい、喜んでもらいたいという気持ちを大切に持ってアクションしたいなと感じてます。

――歴史に残るサービスの立ち上げに、チームの一員として携わられた皆さんから、とても貴重な話をうかがえました。本当にありがとうございました!