インタビュー

「PHS」、本日31日で終了――旧DDIポケットから今を知るキーパーソン、ソフトバンク寺尾氏に聞くその足跡と意義

 本日2023年3月31日、日本発の通信規格であった「PHS」の法人向けサービスが終了する。すでに個人向けサービスは終了しており、今回で、完全に利用できなくなる。

PHSサービス開始前の1993年、札幌での実証実験で用いられたテスト端末。DDIロゴがある
単3電池で駆動した
フリップタイプ

 サービスを引き継いできた、ソフトバンク(ワイモバイルブランド)では、ワイモバイルのWebサイト内で、「PHS25年史」と題したページが2年前から公開されており、その大まかな歴史が紹介されている。

 本誌では今回、旧DDIポケット時代から活躍してきた、ソフトバンク常務執行役員の寺尾洋幸氏に、PHS時代、より正しくは、PHS事業者のひとつであったDDIポケットから続く取り組みを聞いた。

石川氏(左)と寺尾氏(右)

 また当時、ハードウェアを中心とした製品に携わったソフトバンクの石川俊司氏も同席。本誌関口、そして、当時からの歴史をよく知るライターの法林岳之氏が聞き手を務めた。

黎明期から携わっていた

――寺尾さんと石川さんは、社会人としてのキャリアはどこが始まりなんでしょう。

寺尾氏
 ふたりとも当時の第二電電に入りました。いわゆるDDIです。

 石川は私の一期先輩で、先にPHSへ携わっていたのですが、その前にα-LCR(固定電話で通話料が安くなる事業者を選択してくれるサービス)でしたね。

石川氏
 そうですね、DDI入社直後に、DDIセルラーに配属され、その後、PHSに合流したのです。

法林
 今回は、過去を振り返るだけではなく、PHSが現在、そして未来に与える意義や影響といったものも考えられる機会にならないかな、と思っています。

寺尾氏
 なるほど……実は先日、社内で朝礼として話す機会があったんです。

 そこで、ちょうどPHSのことを振り返ったんですが、そのとき「今日は調子が良いと思っても、来月、はたまた来年になれば同じように調子の良かったことは一度もなかった」という話をしたところでした。

――なんとなく、寺尾さんはコンテンツやサービス設計、石川さんはハードウェアの人という印象でしたが、実際はそういう垣根はなかったのでしょうか。

寺尾氏
 ああ、それはなかったかもしれませんね……私自身は、あえて言えばシステム屋でしょうか。ゴリゴリの技術者というわけでもなく、技術を聞いてこういうことができるんじゃないかと考えたり。

ISDNから始まった

寺尾氏
 PHSって、もともと「ISDN」(固定デジタル回線、2024年1月終了予定)から始まった技術です。でも、裏のネットワークはサービス期間中に、100%ガラッと変わったんですよ。

 まず、最初の段階では、「ISDN」ですから、いわばNTT依存型とも言える仕組みでした。

 NTTさんのISDN交換機の端っこに基地局が設置され、コードレス電話機の代わりに使いましょうということで始まったサービスでした。

 その後、2001年ごろ、「AirH"(エアエッジ)」というサービスを始めました。そこで、パケット通信を始めたわけです。当時は「32kbpsの使い放題を使ってもらえるんだろうか」という話もあったんです。

 サービス開始時は、「フレックスチェンジ」という仕組みを導入していました。32kbpsで使い放題のパケット通信とISDNで64kbpsの回線交換通信を切り替えるというものです。

 そのとき、日本で初めてモバイルのデータ使い放題が生まれたわけです。固定通信はADSLが広がっていきましたが、その前はテレホーダイの時代でしたよね。そうすると、32kbpsでもそこそこだと。

 始めてみると、それまでに想定したことがない莫大なトラフィック(通信量)が発生することになったんです。

――なるほど。

寺尾氏
 NTTさんの当時のネットワークって、いわば階層構造でした。上位の交換機があり、その下にパケットの中継交換機みたいなものがある。そして足元の加入者交換機があり、そこにPHSの基地局があった。

 2001年ごろから、ひとつひとつ、NTT局舎に我々の装置を設置して、交換機をバイパスする工事を進めていきました。

 その仕組みを「ITX」と呼んでいましたね。

 ISDNだけでは(通信量をコスト面を含めて)処理しきれなかった状況を技術で変化させ、いろいろなサービスを生み出していった、というのが僕らのテクノロジーの背景でした。

メール、カメラにもいち早く取り組んだ

 そうした取り組みで、一番最初のものと言っていいのが「Pメール」です。

 その前に「テレネーム」というものがあり、無料でメッセージ交換できたので、いろいろと怒られて。

法林
 ISDNでは、もともと電話をかける際、文字列を付加できる仕様があったんですよね。それを端末側でも表示できるようにして、無料でメッセージをやり取りできるようになっていましたね。

――ああ、それで怒られたと……。

寺尾氏
 最初の「サブアドレス」というべきものでしたね。

 自分の電話番号と一緒に、「この番号は寺尾のです」という情報を送るためのフィールドがあったと。そこを使えると料金が発生せずメッセージを送れた。

 怒られたのですが、今でいうSMSの需要が生まれていたんだなと。当時は半角カナ20文字しか送れなかったんですけど。

法林
 もともとポケットベルが流行していましたし。

寺尾氏
 そうですね……。携帯電話・PHSでできた、ということで、今のSMSなどの“最初”を実現していたのかなと。

 そういう意味で、ISDNの機能を専門的に活用していったところがあります。

石川氏
 固定電話の概念だとトラフィックのピークは21時ごろでしたが、Pメールを始めてみると、PHS網でのピークは夜中になったんですよね。部屋で利用するからなのかなと。

 たとえば安室奈美恵が婚約するとか、東京が雪で電車が動かないなんてときにすごくトラフィックが増加して、ちょっとしたメッセージに大きなニーズがあることがわかりましたね。

法林
 今も続くLINEのようなサービスの源流と言うか。

寺尾氏
 狙ってやっていればよかったんですけどね(笑)。

法林
 もちろんポケットベルが流行っていて、iモードもありましたが、そういう文化が花開いたと。J-フォンのスカイメールもありましたし。

寺尾氏
 そして、石川が持っていますが、「トレバ(Treva、2000年11月発売)」というPHSに装着できるカメラも登場して。

Treva

石川氏
 これですね(と言ってトレバを取り出す)

法林
 ありましたねぇ。3.5mmイヤホンジャックでPHS端末に装着して、写真を送れるというものでしたね。

寺尾氏
 ほぼ同時期に写メールも出てきました。こちらは何度か延期していたので、世界初にはならなくて悔しかったですね。

 音声サービス中心でしたが、「feel H"」というサービスで楽曲もダウンロードできる仕組みを用意して。

――着メロではなく音楽を。

寺尾氏
 当時、DDIポケットの親会社だったKDDI(2000年10月発足)では、コア事業とノンコア事業に分類することになって、DDIポケットはノンコアとされて、データ通信に注力することになった。

 そこで苦肉の策で生まれたのが先述した「AirH"」なんですよ。

――苦肉の策ですか。

寺尾氏
 NTTドコモさんが1999年2月に「iモード」を始めた時期ですが、パケット通信って面白いね、となっていて。

 データ通信で生き残る道がないかと探すなかでした。

 「AirH"」はDDIポケットの弱点を補ってくれるサービスでした。というのもハードウェアのコストがめちゃくちゃ安かったんですよ。

 当時の携帯電話は5~6万円程度でしたか。一方でAirH"用の電話機(携帯電話と同等の形状)は2~3万円、feel H"で2万円代後半でしたか。データ端末だと、パソコン用のデータ専用端末ですから、CFカードスロットやPCカードスロット用デバイスとなり、ディスプレイやバッテリーが不要になります。で、5000~6000円とか。

 コストが安いデバイスに、ネットワークは誰もやったことがない使い放題。AirH"は、ようやくDDIポケットに競争力をもたらしてくれた。

 そこから数年は「春」でしたよ。競合他社(携帯各社)はほぼ手を出せない状況でしたね、イー・アクセス(イー・モバイル)が来るまでは。

――ああ、そうでしたねえ(笑)

寺尾氏
 それから、AirH"では、エリアの広さもさほど要求されませんでした。データ通信の主な需要は、都市部でしたから。PHSの弱点であるエリアの狭さをカバーできるプロダクトを作れたと。

そして登場するW-ZERO3

――AirH"による使い放題が2001年6月。そこから数年、他社がキャッチアップできない状況でデータ通信市場を席巻したと。2004年にはAirH" PHONE「AH-K3001V」の発表会を取材した記憶があります。そして2005年には「W-ZERO3」が登場したと。

寺尾氏
 「AH-K3001V」はフルブラウザとしてOperaを搭載した端末でしたね。皆さんから(メーカーの京セラにちなんで)「京ぽん」と呼んでいただいて。

石川氏
 今日は「W-ZERO3」の3代目(Advanced/W-ZERO3[es]、2007年発売)も持ってきました。

左がAdvanced/W-ZERO3[es]、右が「9」。中央上はWS002IN

寺尾氏
 これは名機だったよね。

寺尾氏
 W-ZERO3では、「W-SIM」という仕組みを採用していました。これもPHSの特徴を生かしたもので。

 担当していた須永(康弘氏)の熱意で作っていたところは大きいですね。情熱の塊です。怒られても怒られてもやり続けてました。

法林
 SIMを内蔵した通信モジュールですよね。こうしたものは当時なかった。

寺尾氏
 W-SIMは、より幅広いメーカーさんが気軽に参入しやすくなるよう用意したものです。アンテナなど通信関連のノウハウがなくても開発できるというのが売りで。

――エコシステムを広げる取り組みですね。

寺尾氏
 そうですね。でも、実際に売れたのはW-ZERO3シリーズや、「9」という音声通話端末でした。そのなかで、競争は激しくなっていって。

石川氏
 これもありますよ(と言いつつ、HONEY BEEを取り出す)。

 「HONEY BEE 5」はソフトバンク傘下になった後にリリースしたもので、宮内(謙社長)にこの商品を出しますと紹介したことを思い出しますね。

――おおお、高校生にウケたという。

寺尾氏
 HONEYBEEは2008年発売ですが、もともとは、ウィルコムになった2005年ごろ、京セラさんから提案を受けたことがきっかけです。ウィルコムとしては、販売数で見ると圧倒的に成功事例です。

 それまでのDDIポケットは、マーケティングのことをよくわかっていませんでした。

 そこへ京セラさんにマーケティング的な取り組みを唱えている面白い人がいるということで、一緒にやりましょうとなって。

 女子高生にフォーカスして、どういうものをカワイイとみるのか、使いたいと思ってもらえるのか、ということに注力した製品でしたね。

石川氏
 カメラのシャッター音もカシャっというものだけではなくて、カワイイものを選べるようになっていましたし、ストレートなのにインカメラが用意されていました。

石川氏

寺尾氏
 自撮りのために広角のインカメラでしたよね。

 本当にヒットした商品で、高校単位で大ブレイクするんですよ。

――おおお、それはすごそう。

寺尾氏
 5人10人と持ち始めると全員持つ、みたいな。

 そのかわり、辞めるときは一斉に全員辞めるという(笑)。

ウィルコム、そしてソフトバンク傘下へ

寺尾氏
 僕らとしてはPHSで、新しいことをどんどん取り組んでいきました。で、少し足を止めた瞬間に追いつかれた……というのがPHS時代の経験です。

 ちょっと記憶が定かではありませんが、牛丼屋さんでキャンペーンを実施していて、そこでのあたりが牛丼一杯のチケット。で、ハズレがPHS端末。

 でも携帯電話側はキャッシュバックが激しくなって、携帯電話を買うとマウンテンバイクがもらえるなんてキャンペーンを目にしたこともありました。

 PHSと携帯電話では、ARPU(ユーザー1人あたりの売上高)が異なっていて、携帯電話の規模に押されていったわけです。

 2004年~2005年にかけて、DDIポケットはカーライルに買収され、ウィルコムになりました。そこから5年で事業再生ADRになりました。

 W-ZERO3は2005年、その3年後にはiPhoneですよね。

寺尾氏
 そういう危機のなかで、経営者という立場だと常に「大丈夫だ」と言ってしまうものです。明日だめになるということを想像しているかもしれないけど、次の打ち手を躊躇した瞬間に沈んでしまう。

法林
 とはいえ、競争が激しいからこそ、W-ZERO3や、W-SIMといったアイデアもたくさん生まれていった側面もありますよね。

寺尾氏
 そうですね、あがきましたねえ……。

 今の携帯電話と違って、(DDIポケットの)PHSでは、自分たちで規格を作っていましたから、思いついたことを実現できたんですよ。

――携帯電話側は、3GPPのような場で標準化されるルールのなかでの設計。それに対してPHSは……ということですね。

寺尾氏
 そうですそうです。ISDNをベースに、その上で作る製品、サービスは本当に自由に作れたんですよ。

 Pメールの規格もそのひとつで、ISDNのサブアドレスをどう使うか規定があんまりなくて、データの冒頭で「これはPメール」と宣言していたら、あとは自由にできた。

 自分たちの創意工夫がそのままプロダクトにできたのは大きかった。それを早く仕上げてくださるエンジニアの皆さんもいて。

今も続く「通話定額」の先駆け

寺尾氏
 2005年2月に「ウィルコム」となった直後の2005年5月、PHS間で通話定額となる「ウィルコム定額プラン」をリリースしました。

 それから5年後の2010年12月、ソフトバンク傘下になって、他社携帯や固定電話も通話定額になる「だれとでも定額」が登場しました。

 カーライル傘下の時代、コンサルタントがついて、いくつかアイデアはもらっていました。でも、「それはできないよ」と返したことも多かった。

 そのとき寄せられたアイデアのひとつが「他社の携帯電話宛も話し放題にしたら、すごく需要がある」というもの。ウィルコム定額プランではPHS間なら通話定額でしたが、他社も含めるとアクセスチャージ(接続料)がかかりますから、「それはできない」としていたんです。

 2009年~2010年、実際に、事業再生ADRのあと、新しいことに取り組む業務はストップしました。維持することに資金は用いられるけど、会社が潰れたら、やることがないんですよね。

寺尾氏

 仕方なくブラブラしていて、ふと思いついたのが「だれとでも定額」。もし、(事業再生ADRの)5年前にやっていたら何が起こっていたんだろうなーと……。

 「だれとでも定額」のような1回10分まで話し放題というサービスは、今や当たり前になりました。先日、海外の人と話していたら、そちらでも同じようなサービスがあると。

 DDIポケットから続いてきたPHSの上でのサービスが、もしかしたら今の世界を少し変化させることができたのかなとも感じています。

 そうしたことを踏まえると、企業が生き残るためにはどうするのか、といったあたりが、個人的にはPHSを通じて、一番学んだことですね。

法林
 使い放題といったサービスはやはりものすごくパンチ力があるというのは、やはりあらためて感じるところですね。そうしたアイデア、サービスが出てくるのは、やっぱり追い詰められたから、と言えそうです。

寺尾氏
 そうですね(笑)。今日の話の前半で「ITX」の導入についてお伝えしましたが、ITXを入れることで、NTTのISDN網を介さず、結果的に自社で分散したフルIPのネットワークを作っていった。

 それも通信量が多いところから、徐々に導入していったんですね。お客さまが増えてきたエリアがあれば、そこにITXを導入すると。

 ISDN網と自社網を組み合わせて共存させたハイブリッドなネットワークです。

 ここで課題だったのは、たとえば「電話がかかってきたときに、ユーザーがいる場所へ2つのネットワークから呼び出す」といったものです。

 ある場所ならNTT交換機につながる基地局、別の場所ならITXにつながる基地局ということになりますから。

――端末は常に、自分の場所の情報を基地局・コアネットワーク側に送りますよね。

寺尾氏
 加入者データベース、HSSやHLRと呼ばれるものと、ITXで構成していたんですね。そこでNTT網へ行くのか、ITX網へ行くのか振り分ける仕組みを導入したわけです。

 言ってみれば、楽天モバイルさんがauエリアのローミングを利用するのと同じですよね。それを、何もスタンダードがないPHSで、発明しながら実装していったわけです。

 ITXにしたことで、キャパシティにも余裕が生まれた。エンドノード同士で通信しているので、センターノードがないんですよ。音声定額でも、十分余裕があった。

 お客さまが少なくて輻輳しないのではなく、増えても大丈夫な仕組みだったんです。1カ所だけ混雑するところがあって、そこは二重化の二重化で対応していましたね。僕が設計したわけじゃないですけど(笑)。

 DDIポケット/ウィルコムは、そういうテクノロジーバックグラウンドを持ちながら、「今日、この場所は100人しかいないので、アクセスチャージを払ったほうがいい」「1万人になったこの場所は自分たちの仕組みにしたほうがいい」というかたちで、コストをコントロールしながら、徐々に投資していったのです。

 一気に独自網にできればよかったのですが、投資額が大きいのでできない。そこで「部分的に導入する」という仕組みをどんどん発明していったんですよ。

 NTTのエンジニアさんと話しながら考えていって、「どこかで抜け道がないか」「対策はないか」というのが、僕の本来的な仕事でしたね。

1日で数万人分を切り替える

 思い出深いのは、ウィルコム沖縄での取り組みです。もともと同社は、アステル沖縄でした。

 アステル沖縄を利用されていたお客さま3~4万人を、ある日、それまでのネットワークから、ウィルコムのネットワークへ切り替えるという作業があったんです。1日でですよ。

――機種変更を呼びかけるという手法ではなく。

寺尾氏
 そうです。交換だと、店舗へ来訪されない方もいらっしゃいますから。

 そこに、「NTTの仕組みが分かったので、こうすれば切り替えられる」と思いついて、NTTの方と一緒に工事して夜12時から作業を始めて、5時ぐらいに終了して。

 その日以降、こちらの電話をお使いくださいと、でも電話番号は同じで。

 違う電話番号なら簡単なのですが一晩でそれを切り替えた。NTTの方にはよく付き合っていただいたと思います。

 沖縄の事例に限らず、ISDNとの接続でしたから、当時、相互接続推進室と呼ばれていた担当部署の方もすごく熱心に対応してくださった。

 第二電電はNTTの競合でもありましたが、僕らが成長すれば(NTT側の)売上も伸びるというビジネスマインドを持っていた方もいて、本当にありがたかったです。

――知らなかったお話が今回、本当に多いです。

寺尾氏
 法人向けのデータ通信が今回、終了するわけですが、エレベーターの非常ボタン、AEDの死活監視みたいなところにも導入いただいていたんですよ。

 PHSを用いて、酸素ボンベの死活監視の仕組みを自発的に作って導入されていたところもあったそうなんですけど……途中で(PHSが突然終了して)ドボンと沈まないか、本当に心配でしたが、最後をきれいに仕舞えるようになったのは、本当によかったと思っています。

――今日のお話は、PHS、そしてDDIポケットからの系譜が本当にオリジナルなものばかりで、自由度も高く、創造性があったという印象ですが、未来に残るものとしてはどういったものがあるんでしょうか。

寺尾氏
 創意と工夫というか、そういうものがあるかぎり、この分野の進化は続いていくと思うんです。

 お客さまを見て、技術で実現できる可能性を追求して、世に出して問うてみる。成功も失敗もあるんですが、そのサイクルをどんどん続けていくことが僕らの学んだことです。サイクルを止めると会社は終わる。

 どんどん出して、成長と進化を続けていく。それでなんとか生き延びてきたと思います。

法林
 最初は第2世代の携帯電話が競合相手で、今や5G。あらためて28年続いたPHSのすごさ、ベースの良さ、次々とバージョンアップというか、進化が止まらなかったことが良かったんでしょうね。

――本日はありがとうございました!

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