藤岡雅宣の「モバイル技術百景」

パリオリンピックでは5Gがどのように使われたか

- TVカメラ映像を5Gプライベートネットワークでアップロード -

 2021年の東京オリンピックでも一部の競技で5Gが利用されましたが、7月から8月にかけて開催されたパリオリンピックでは、5Gがより本格的に活用されました。特に、多数の放送用カメラからの映像伝送などに利用するために5Gプライベートネットワークが構築されました。

 また、競技場と周辺には内外から観戦に訪れる多数の観客のモバイル通信のために十分な容量を確保するための措置が取られました。ここでは、パリオリンピックで5Gがどのように利用されたのか見ていきましょう。

オリンピックでの通信

 オリンピックでは何千、何万の観客がスマホを持ってスタジアムやアリーナに観戦に訪れます。この観客のメールやSNSなどの日常的な通信をサポートする必要があります。また、観戦中の映像のアップロードなどのトラフィック負荷にも対応する必要があります。パリオリンピックでは入場チケット配信などの専用アプリも活用されたので、それらのためにもモバイル通信は重要な役割を果たしました。

 組織委員会や選手団、審判団、役員、医療・警備チーム、ボランティアらが、競技の進行や運用などのための様々な通信を行う必要があります。世界から来ているメディアの人たちの通信もあります。また、放送事業者が競技の映像を伝送、配信に利用するための通信もあります。

 パリオリンピックでは、フランスの最大手通信事業者であるOrange(旧フランス・テレコム)がParis 2024の国内Premium Partnerとしてオリンピック及びパラリンピックに関わる通信サービスを一手に提供しました。これにはモバイル通信だけではなく、固定通信やWi-Fiも含まれます。

5Gプライベートネットワーク

 Orangeはオリンピックとパラリンピックの期間、TVカメラで撮影した映像をカメラから無線で送るために、通常の公衆ネットワークとは独立したプライベートネットワークを構築しました。映像伝送専用のプライベートネットワークにより十分な帯域が確保されると同時に、5Gスタンドアロン構成として低遅延での効率良い伝送を可能としました。

 プライベートネットワークというのは、企業や施設で利用するために確保された無線周波数を使用する免許を獲得した上で、特定の場所やエリアにローカルに構築するネットワークです。日本でも「ローカル5G」や「プライベートLTE」と呼ばれている特定の周波数を利用するネットワークに相当します。

 Orangeは、フランスでプライベートネットワーク用に確保された周波数を利用してネットワークを構築しました。

 具体的には、ボートを利用した開会式の航路である約6kmのセーヌ川沿い、陸上競技や閉会式が行われたStade de France、体操やバスケットボールが行われたArena Bercy、水泳や水球が行われたLa Défense Arena及びヨット競技が行われたマルセイユMarinaがサービスエリアとなりました。

 プライベートネットワークは十分な無線帯域を確保しており、現場の映像伝送専用に利用されるため、高解像映像を安定して送ることが可能です。特に、無線帯域の約80%を上り(デバイスから基地局の方向)に利用するように設定したので映像アップロードに有効でした。

 日本の公衆網でもそうですが、一般的に5G用の周波数では約1/3程度を上りに割り当てているので、上りにこのような大きな帯域を割り当てるのはプライベートネットワークならでは可能となった点です。これ以外に、5Gスタンドアロンの特徴から超低遅延でリアルタイムでの伝送が可能、独立したネットワークのためにセキュリティ性が高いなどもプライベートネットワークの利点です。

 なお、プライベートネットワーク用の基地局やネットワーク機器は、Orangeが公衆網で利用しているインフラベンダーではなく、パリオリンピックのOfficial PartnerであるCiscoが提供しました。

船上の映像をスマホ経由で送信

 開会式では85台のボートが各国選手団を乗せて図1のようにセーヌ川を約6km下りましたが、各ボートにはこちらはワールドワイドのオリンピックPremium Partnerであるサムスン電子が提供したスマホ、ギャラクシーS24ウルトラが据え付けられていました。このスマホが選手たちの生き生きした姿をとらえ、5Gプライベートネットワークを経由してスタジオに送られ世界に配信されるテレビ映像に利用されました。

 選手団を乗せたボート上でカメラとして利用するスマホが約200台準備されたのに加えて、川沿いに可搬型のTVカメラや撮影用ボート上にカメラが配備され、合計約500台のカメラが5Gプライベートネットワークを利用しました。セーヌ川沿いには、このために12個の専用5G基地局が設置され映像配信に利用されました。図2にセーヌ川沿いに設置された基地局の写真を示します。

 マルセイユ沖で行われたヨット競技でも、競技用ヨットにギャラクシーS24ウルトラが据え付けられ、撮影映像は海の上に停泊させた基地局搭載ボートを通じてリアルタイムでストリーミング伝送されました。これにより、視聴者は選手たちと一緒に実際の競技に参加したかのようにリアルで躍動感あふれる光景を楽しむことができました。

競技中継のTVカメラ映像伝送

 今回のオリンピックでは可搬型のTVカメラは基本ワイヤレスで、カメラで捉えた4Kなどの映像は5Gや4Gの無線を通してモバイルネットワークから後述のIBCスタジオに送られました。これによりカメラの移動や持ち運びが容易となり、より的確な距離や角度から映像を捉えることが可能となりました。

 5Gプライベートネットワークがサポートしていないスタジアムやアリーナでも、公衆モバイルネットワークを用いてTVカメラの映像が伝送されました。

 サッカー、ラグビーや自転車BMXなどのアーバンスポーツが行われるスタジアムやバレーボールが行われるアリーナでは、空中懸架ケーブルカメラ(Spider Camera)が4つの方向からケーブルで吊り下げられ、競技の進展に合わせてまさにクモのように移動して遠隔操作で的確な映像を捉えるようにカメラの位置・角度が調整されました。これも、ワイヤレスのおかげで機動性が高まったようです。

Push-to-talk

 オリンピックのTV中継については、国際オリンピック委員会(IOC)が設立したオリンピック放送機構(OBS:Olympic Broadcasting Services)が一手に公式放送を担当しています。OBSは、オリンピック競技の映像や音声を全世界に提供する役割を果たしており、各国の放送局に対してオリンピック競技の放送素材を配信します。

 パリオリンピックではOBSがパリ郊外のLe Bourget(ル・ブルジェ)にあるコンベンションセンター内に、世界各国のテレビ、ラジオ、デジタルサービスなど放送機関のオペレーションの拠点となる国際放送センター(IBC: International Broadcast Centre)を設立しました。Orangeは、このセンターや各競技場に配備されたIBCスタッフ用に4Gネットワーク上でPush-to-talk通信機能を提供しました。

 Push-to-talkというのは、スマホのアプリとしてトランシーバーのようにボタンを押しながらグループ内のメンバーに音声メッセージやスマホのカメラ映像をリアルタイムで送信するサービスです。これにより、放送従事者間での密な連絡や、現場の状況を伝える生の映像を送ることができます。

 なお、このPush-to-talkアプリは、オリンピック委員会、選手チーム、ボランティア、医療サポートや警備チームにも利用され、有用な通信手段として利用されました。このアプリは、4G ネットワーク上で優先アクセスの仕組みを用いて高信頼の通信を提供しました。

オリンピック観客の通信サポート

 パリオリンピックの競技場では、観客が利用するWi-Fiは準備されませんでした。代わりに、Orange及び他モバイル通信事業者は競技場や周辺の4G及び5Gのモバイルネットワークの容量を拡大して大量のトラフィックを吸収する方策を採りました。一つの基地局で広いカバレッジを取れるセルラー通信のほうが効率が良いと判断したようです。

 Orangeは約50の可搬型基地局も臨時に設置し、モバイル通信の容量拡大に努めました。これらも含めて、臨時で容量を確保する対策を採った基地局サイトも多いですが、この機会に容量拡大をして競技期間が終わってからもこれらを維持するサイトもあります。実際、観客はスマホで4Gや5Gを利用したわけですが、通信接続に関わる大きな問題は報告されていません。

 今回のオリンピックはペーパーレスを基本とし、スマホアプリで入場チケットに相当するQRコードが試合の前に観客に配信されました。そのため、最低限スマホの通信接続が必要でしたが、こちらについても大きな混乱は生じず、スムースに入場処理が行われました。スマホには、毎日の試合の予定を周知するアプリや自分のいる場所から競技場への行き方を検索するアプリも提供されました。

オリンピック選手用スマホ

 パリオリンピックでは、サムスン電子が7月に発売した新型スマホであるGalaxy Z Flip 6の限定モデルを約1万7000名の出場選手に供与しました。縦に折りたためるスマホで、本体背面にはオリンピック・パラリンピックのロゴが施されていました。また、競技スケジュール情報やメダルランキングなどを提供する公式アプリなどがプリインストールされていたようです。

 このスマホを用いて入場パレードのボート上や、メダル授与後に受賞台で自撮りを行う選手もみられたほか、スマホに搭載された多言語間翻訳機能を利用した選手間のコミュニケーションなどにも利用されたということです。

 Orangeは、オリンピック選手に対して欧州域内での100GBのデータ通信と無制限の通話やSMS、他地域への2時間の通話や1000通のSMSを無償で提供しました。

おわりに

 筆者は現地パリの主な競技場で様々な競技を観戦しましたが、OrangeのeSIMを利用したこともありスマホの通信は常に安定しているという印象を持ちました。チケット配信アプリ、その他のオリンピック専用アプリも問題なく利用できました。

 特に印象的だったのは、サッカーの試合などで空中のTVカメラが高速に移動して被写体を的確に捉える巧みな操作が行われていたことです。可搬型TVカメラを持ったカメラマンが素早く動いて撮影する姿も印象的でした。

 5Gの利用という意味では、フランス国内の聖火リレーもTVカメラから5Gで映像がアップロードされました。また、5G仕様の一部として5G Broadcastという放送機能がありますが、フランスの放送事業者であるTDF(TéléDiffusion de France)は5G Broadcastトライアル放送の一環としてパリを含む一部の都市でオリンピックのライブ中継を放映したということです。

 なお、パリオリンピックでは5Gや4Gが主に利用されましたが、Wi-Fiが使われなかったという訳ではありません。Wi-Fiはメディアパートナー、組織委員会、技術スタッフのための運営サポート用に準備されました。また、ATM(現金自動預払機)、チケット読取りなどで利用されたということです。

藤岡 雅宣

1998年エリクソン・ジャパン入社、IMT2000プロダクト・マネージメント部長や事業開発本部長として新規事業の開拓、新技術分野に関わる研究開発を総括。2005年から2023年までCTO。前職はKDD(現KDDI)で、ネットワーク技術の研究、新規サービス用システムの開発を担当。主な著書:『ワイヤレス・ブロードバンド教科書』、『5G教科書 ―LTE/IoTから5Gまで―』、『続・5G教科書 ―NSA/SAから6Gまで―』(いずれも共著、インプレス)。『いちばんやさしい5Gの教本』(インプレス)、大阪大学工学博士