インタビュー

「auケータイ図鑑」で石野・石川・法林が携帯電話30年の歴史を振り返る

第2回:携帯電話が当たり前になり、メールやネットを楽しむ時代へ

 KDDIのデジタルマガジン「TIME & SPACE」に先日オープンした「auケータイ図鑑」。約30年に及ぶ携帯電話の歴史を振り返り、KDDIの前身である日本移動通信(IDO)やDDI-セルラー、ツーカー時代の携帯電話から2015年のスマートフォンまで網羅したデジタル図鑑だ。同サイトは、先行して3月末に公開された「おもいでタイムライン」ともシンクロしており、時代に沿って音楽やファッションも懐かしむことができる。

 そんな時代を振り返りつつ異なる世代の3人、本誌でもおなじみの石野純也氏(30代)、石川温氏(40代)、法林岳之氏(50代)に当時を振り返ってもらうこの企画。第2回は1993~1996年、そして1997~1999年の携帯電話が爆発的に広まっていく時代を語ってもらう。聞き手は本誌編集長の湯野康隆。

1993年~1996年――「携帯」から「ケータイ」に

 1993年(平成5年)の大きなトピックとしてJリーグの開幕が挙げられるだろう。今に名を残すスタープレーヤーたちの中にカズ(三浦知良/現・横浜FC)もいた。23年前の話である。そのカズが当時所属していたヴェルディ川崎の監督は今や人気解説者となった松木安太郎氏。ワールドカップ本選への切符をロスタイムに逃した「ドーハの悲劇」があったのもこの年だ。

 1996年にかけて日本は大きな事件、出来事が相次いだが、デジタル業界では1995年にパソコン向けOSであるWindows 95の大ヒットがあった。このOSがパソコンとインターネットを家庭に大きく普及したと言ってよいだろう。

 携帯電話関連では個人用の通信機器であるポケベルの普及が広まり、1994年には当時レンタルだった携帯電話の売り切り制が始まる。携帯電話を買うことができるようになったのだ。ここでツーカーとデジタルホンが携帯電話事業に参入、この2社は1996年には「デジタルツーカー」として広まっていく。携帯電話の通信方式はアナログ方式から第2世代のデジタル方式へと切り替わり、1993年のドコモを皮切りに「PDC」方式が主流に。1995年には「PHS」も始まった。携帯電話を持つのが当たり前になり「ケータイ」と呼ばれるように。

世界で最も売れたフリップ型、「クルクルピッピッ」って何?
石川温氏

――1993~1994年になるとポケベルだけでなく携帯電話も当たり前になる時代に入ります。

石川
 1994年の買い切り制導入でツーカーとデジタルホンが参入して、競争が激しくなりましたよね。無料で携帯電話を配りはじめて一般の人でも手にするようになった。その頃、大学1年生でデジホン(デジタルホン)のノキア端末をもらったのを覚えている。

石野
 石川さんが1994年で大学1年ということは、僕は3年後の1997年に大学に入ってPHSを買うんですよ。今は無きアステル(1995~2006年まで存在したPHS事業者)だった。

――彼女との連絡用ですか?

石野
 いや、その頃は一人暮らしで友達との待ち合わせとかに使っていたんですよ。みんなが持ち始めて便利そうだから。それに石川さんと同じく無料で配っていたので。

石川
 当時0円や1円で売っていたおかげでここまで日本に携帯電話が広がったとも言えるよね。ただ、この頃は端末代はタダでも通信料は高かったから。

――今見てもこの頃の携帯電話、たとえばデンソーの「T204」のボタン配置とか斬新ですよね。

一同
 (頷く)。

石川
 この頃はメールもあまりやらなくて、通話機能だけがメインだったのに、これだけ形状で工夫ができるわけだからね。

石野
 iモードやEZwebが出てくると画面が大きくなっていくから。

石川
 その頃になると形状にとことんこだわった端末が出てくるようになる。勝ち残ったというか。

――今の携帯電話では内蔵されてしまったアンテナが目立ちますよね。しかもアンテナをあえて主張している感じがする。

法林
 アンテナの技術は本当に進んだ。昔はアンテナが飛び出しているのは当たり前。この頃の周波数帯は下のほうの800MHz帯をメインでやっていたから、波長が長い。それでアンテナも長くなっていた、というのがある。

――光るアンテナ(携帯電話の電波を電流に変える。詳細はこちら)とかやってました?

石野
 法律に触れるようなことはやりませんよ(笑)。

一同
 (笑)。

石川
 変わったバッテリーもありましたよね。そういうのを使っているほうが仕事ができるイメージがあった。当時からバッテリーのもちには悩まされていたんだよね。

法林
 形状を振り返ると、まずモトローラの「マイクロタック HP-501」(1989年10月発売)。この「フリップ型」は携帯電話の原型の一つだよね。若い人たちは知らないかもしれないけど、携帯電話ではたぶん世界でもっとも売れたデザインだよ。

――いまだに好きな人は好きですよね。

石野
 今見ても格好いいですよ。大きいけど。

法林
 1994年に発売のツーカー「TH241」(ソニー)も凄い。「クルクルピッピッ」と言われたマルチファンクションダイヤル。横のダイヤルをクルクル回して電話帳を選んで電話をかけるという。ツーカーの最初の代表的な携帯電話と言えばTH241、というくらいの存在。

石川
 「このダイヤルじゃないと嫌だ」と言ってずっとソニーという人がたくさんいましたからね。

法林
 そう、これが欲しくてツーカーに入って、ツーカーから離れられない人がいた。

――最終的にはジョグダイヤルにまで残りますから。

石野
 Xperiaにも付けるべきじゃないですか(笑)。

法林
 えっ、今、本当に?!

一同
 (笑)。

石川
 あとソニーの「T206」も印象的。

法林
 横からイヤホンマイクが出る端末ね。

――よく考えたよな、と思う端末ですね(笑)。

一同
 (笑)。

石川
 本当、その頃は電話しか機能が無いにも関わらず、形を頑張っていて、選ぶ楽しみがあったんですよ。

法林
 チャレンジしていたね。大型のヘッドホンみたいなPHSも開発していた。

――それと、初期の頃からストラップホールが結構ありますね。

石川
 端末が大きいからストラップを手に掛けて通話するというスタイルが当たり前のようにあった。ただ、「auケータイ図鑑」を見ていると、この頃は圧倒的にフリップ型が多いと思いますね。

法林
 あとストレート型ね。音声通話だけの時代は折りたたみ型はいらないというか。不遇の時代で無くなろうとしていたほど。

1997年~1999年――手のひらからIT革命

 1997年(平成9年)、やがて世界を変えることになる人物が“復帰”していた。米国のアップル社にスティーブ・ジョブズが帰ってきたのである(1985年にアップルを離れていた)。1998年にiMacを発売。だがまだ彼の名は一般にまでは広まっていない……。初代iPhoneの発売はこれから10年後の2007年。

 1998年には日本がワールドカップ本大会に初出場。Jリーグ誕生からわずか5年である。長野オリンピックの開催もこの年だ。芸能面を見ると、1997年はお台場にフジテレビが移転。この年の代表的なテレビドラマの一つと言えばフジテレビの「躍る大捜査線」。主演の織田裕二さんはそれだけでなく、1998年まではドコモのテレビCMに出演し、1999年にはライバルであるIDOのCMに出演して大きな話題となっている。

 そう、この1999年は携帯電話業界にとっても大きな出来事の連続だ。1998年にDDI-セルラーが通信方式に「cdmaOne」を導入し、IDOが1999年に続く。そしてドコモの「iモード」、DDI-セルラーが「EZweb」、IDOが「EZaccess(のちにEZwebへ)」をスタート。世界で初めての携帯電話を使ったインターネットサービスが提供される。さらにデジタルホンやデジタルツーカーから「J-PHONE」も生まれた。

法林氏が買った1998年のフルタッチケータイとは?
法林岳之氏

法林
 「auケータイ図鑑」を見ていると、1995年までは黒いカラーの端末ばかりなんだけど、1996年、そして1997年になるとさまざまな色の端末が出てくるのが分かる。

一同
 (頷く)。

法林
 音声通話(のみの端末)の最後の頃は地域限定カラーとか、何千台限定とか、カラーのバリエーションも多くあって、買えないから地方に行って契約するという人もいたくらい。

石川
 その頃は地域会社がありましたよね。地方で買ったほうが安いとか、たくさんいましたよ。大阪が安いから都内から大阪まで行って買ってくる人だっていた。

――当時のカタログを見ると、エリアマップのところで衝撃を受けますね(苦笑)。

石野
 携帯電話がつながらないところが普通にありましたもんね。

――そうなんです、“国内”ローミングがあった頃です。

石川
 そう、東京だと国道16号線内(首都圏を環状に結んでいる)がまずエリアになるんだけど、当時住んでいたあきる野市がエリアに入るか入らないか、微妙な位置で毎月やきもきしながらエリアマップを見ていたなぁ。

石野
 この頃の代表的なケータイの一つが京セラの「508G」。

法林
 セパレートバイブレーター(カバンのなかでも着信がわかる)、“セパブル”が標準装備! 今の人に分かるかな?

――売り文句が凄いですね(笑)。

法林
 この頃、IDO版のクルクルピッピッであるソニーの「511G」も出てきたね。

石川
 ソニーはクルクルピッピッだけど、東芝の「501G」のボタンは4方向キーですよ。メーカーによってUIがそれぞれ違う。

法林
 東芝のボタンはマルチファンクションボタンの原型、十字キーの先駆けだね。

――こういうボタンが生まれたのは、端末が高機能になってきて、機能を選ぶ必要が出てきたということですね。

法林
 そうそう、電話帳が入ってきたから電話番号を押す以外の操作が必要になってくる。複数の電話番号を登録しているので選ぶ必要がある。

石川
 そこで漢字入力や変換も必要になってくる。

法林
 それがメールにつながっていくんだよね。

石野
 最初は手帳に電話番号を書いていましたもんね。

法林
 僕は電子手帳に書いていた(笑)。

石川
 この頃の携帯電話のUIは皆バラバラですよ。出版社に入社して、最初に雑誌(日経トレンディ)で携わったのが、携帯電話のUIチェック。使い勝手が各社で違ったので、評価しやすかったんですよ。

――書きやすい時代ですよね。進化が著しくて。最初は漢字すら出てこなかったのに。1998~1999年あたりになると今の形に近いですよね。折りたたみ、フリップと……。

石野
 フルタッチもあったわけだし。

法林
 液晶の性能は別として、1998~1999年あたりで全面液晶の可能性は見えたよね。iモードやEZwebが出る前後のあたりは、今のスマホの原型となるPDA(パソコン連携や通信機能のあった小型情報端末)も多く登場して面白い時期でしたよ。

石川
 シャープがザウルス(1993年発売)を作っていて、電子手帳や通信機能があれば面白いなと。各社がやっていた時期ですよね。

法林
 Palm(1996年発売)とかね。

石野
 シャープもPHSを出していて、欲しかった覚えがある。

石川
 みんないろんな形にチャレンジしていて「これが未来の携帯電話の姿かも?」と楽しかったですよね。一番端末が輝いていた。

法林
 そうだね、形状の工夫を真剣に考えていた。僕はIDOの「523G」(パイオニア)を買ったんだよ。全面液晶の機種。今のスマホを使っているといろいろ思うことがあるんだけど、日本語入力はマルチタップじゃないですか。ただボタンを押した感がなくて最初操作に戸惑った覚えがある。

石川
 523Gをソクハイ(バイク便/1982年創業)の人が持っていて、それで指示を受けて取りに来る。憧れの端末でしたね。

石野
 大学でギーク寄りの人たちが持っているのを見ましたね。ただ、その時点ではまだPHSで、携帯電話に変えたのが1998か1999年に合宿免許で山梨県に行くことになったとき。PHSが入らなかったんですよ。

――PHSがつながらない?!

石野
 そう(笑)。だからドコモの携帯電話を買った覚えがあります。これまた今は無き三菱電機のフリップ型。Dの携帯電話ですよ。フリップ型は電話っぽくて良かったよね。

石川
 1990年代の後半になると薄さ、軽さ競争になっていく。

法林
 パナソニックと京セラで世界最小最軽量、何グラムといった形で。

――当時「何cc」といった言い方をしていましたね。

石川
 そうそう京セラが「526G」で69gで世界最軽量と言ってたね。ワイシャツのポケットに入るとか。

法林
 パナソニック(当時・松下通信工業)は「521G」の80gかな。軽いのはドコモからも出ていたね。

携帯電話の番号が11桁化、ケータイでメールを使うのが当たり前に
石野純也氏

石川
 そういえば1999年に電話番号が1桁増えて11桁化したんですよ。

法林・石野
 あったあった!

石川
 今の090の番号ですけど、それで11桁入力できる携帯電話に変えなきゃ、と思った覚えがある。

石野
 電話番号が自動的に変わりましたよね。

法林
 030から090にね。この頃は“良番”という言葉もあった。

――電話番号を売り買いしてましたね。

法林
 1234~みたいな良番に電話をすると留守電になっていて「何千万円で売ります」みたいなメッセージが流れるっていう(笑)。

石川
 良番を持っていると電話がガンガンかかってくる、なんて言ってね。

石野
 中国では良番文化が残ってますよね。番号によってSIMカードの値段が違う。

――中国では8並びが縁起が良いと言われるので高いとかあるんでしょうね。

法林
 良番文化は日本以外はどの国でも残ってるんじゃないかな。

石野
 なんで日本では廃れてしまったんでしょうね……。

石川
 その後、IDOが優先番号みたいな、番号を選べるようになったときがありましたよね?

法林
 1999年にcdmaOneを始めたときね。予約した人は下4桁が選べたんだよ。それが後から誰でも選べるようになった。

石川
 そのときに加入して今の電話番号を持ったんですよ。それで今もauのケータイがメインになっている。

法林
 僕もそうだね。auのメイン番号はこのとき。

――今はMNPができちゃいますけどね。

石川
 じゃあ1999年になると型番はCの3桁になりますね?

法林
 そう、C1XX台だとメールまでしか使えないんだけど、C2XXになるとWAPに対応してEZwebが使えるようになる。ドコモのiモード対抗だよね。僕が買ったのはC201H(1999年発売/日立)だった。

石川
 この頃、cdmaOneの通話チェックのために九州行ったりしましたからね。

法林
 このへんからはすごく覚えているよ。

石川
 嫌だぁ~(笑)。

――当時の仕事の苦労が思い出されて?(笑)

石川
 そう(笑)。

――この頃はケータイでメールを使ってました?

石野
 iモード端末をメールアドレスが持てるから、という理由で買った覚えがあります。パソコンも使っていたから買う前はあまり便利そうに思えなかったけど、買ったあとは意外と使うようになりましたね。

法林
 僕は逆でiモードもEZメールも怖くてできなかった。パケ代が高くなるので。SMSと各社のショートメッセージに相当するサービスを使ってたね。

石川
 この頃はメールはJ-フォンのスカイ系が強かったイメージがある。自分はスカイウォーカー(スカイメールとEメールが使える)を使っていて、PCのメールを受信したりもしていた。この頃の端末はメールとの相性が良かった気がするなぁ。

法林
 メールの解釈も人によって違っていて、ケータイのEメールも、PCを使う人から見ると送れる文字数が少ないから役立つの? っていう意見があった。だけどケータイに転送されてきたメールをチェックして、PCを見ようっていう使い方ができるようになったんだよね。ただ、その後メールの受信量が多くなって、メールを受信したせいでパケ死する人が出てきた(苦笑)。それでやめちゃったり。

石川
 それでリモートメールみたいなサービスが出てきたり。

石野
 ありましたね。懐かしい。

法林
 あとはアプリが使えるようになると、メールチェッカーというアプリも出てきた。いろいろ工夫があった時代。

石川
 メールのコミュニケーションが一般化したよね。絵文字が普及したり、その絵文字を見たいから、友達と同じ会社のケータイを買ったり。今のLINEにも通じるところがありますよ。

石野
 着メロもありましたね。着メロを自分で作る、編集するぜ、っていう。

――着メロ本がコンビニでやたらと売っていましたよね。1990年代後半ですか。

石野
 その頃ですね。着メロのダウンロードサービスが始まると、そういう本が無くなって……。ちょうど僕が入った出版社で着メロ本を作った人が一攫千金を達成していましたよ。僕自身は着メロの作成は面倒くさくてスルーしてたんですけど。ダウンロードができるようになったときは、素晴らしくてよくダウンロードしましたよ……それでパケ死するみたいな(苦笑)。

法林
 着メロのダウンロードができるようになっても、着メロの編集は続いていたねぇ。

石野
 そうでした。僕の買ったドコモの携帯電話では編集ができなくて。

法林
 そうそう、編集方法を公開しているメーカーと公開していないメーカーがあったんだよ。

――この頃から“和音”数で競い始めるんですね。それが2000年……続きは次回に。

(第3回へ続く)