インタビュー

「auケータイ図鑑」で石野・石川・法林が携帯電話30年の歴史を振り返る

第1回:自動車電話から個人携帯に進化した時代

 KDDIのデジタルマガジン「TIME & SPACE」に先日「auケータイ図鑑」がオープンした。約30年に及ぶ携帯電話の歴史を振り返り、KDDIの前身である日本移動通信(IDO)やDDI-セルラー、ツーカー時代の携帯電話から2015年のスマートフォンまで網羅したデジタル図鑑だ。その掲載機種数は600以上に及び、各携帯電話の商品情報や貴重な当時のカタログまで楽しむことができるのだ。

 同サイトは、先行して3月末に公開された「おもいでタイムライン」ともシンクロしており、時代に沿って音楽やファッションも懐かしむことができる。眺めていると、この30年でいかにコミュニケーションの形が大きく変わったのか、誰もが気付かされるはず。今の10代~20代の若者にとってはそれこそ携帯電話の無い時代を想像するのすら難しいだろう。だが、そんな時代が確かに30年前まであったのだ。

 今回は本誌でもおなじみの石野純也氏(30代)、石川温氏(40代)、法林岳之氏(50代)の異なる世代の3人に集まってもらい、この「auケータイ図鑑」と「おもいでタイムライン」を参考にしながら、携帯電話の進化、コミュニケーションの変遷について振り返ってもらった。聞き手は同じく携帯電話を長く見つめてきた本誌編集長の湯野康隆。

1985年~1988年――“予感”の時代

 1985年(昭和60年)、子どもたちに大きなブームが巻き起こった。「ファミコン」である。「スーパーマリオブラザーズ」が発売され金字塔をつくるのはご存知の通り。芸能界では「おニャン子クラブ」がデビューし、瞬く間にアイドルの伝説となった。スポーツでは阪神タイガースが初の日本一(2リーグ制)。バース、掛布らが大活躍した時代だ。

 そしてこの年、通信自由化のため電電公社が民営化しNTTに。電気通信事業への新規参入が認められ、第二電電(DDI)が発足する。1987年には日本移動通信(IDO)が設立。固定電話の世界が大きく変わり、さらに携帯電話の歴史、KDDI・auの歴史がこの頃から始まった。

伝説のショルダーフォン、実は石野家にあった?!

――今回は携帯電話の歴史が始まった年、30年前の1985年から振り返りながら当時の思い出話を存分に語ってもらいたいのですが、30年前、皆さんは何をなさっていましたか?

石野
 当時8歳くらいですよ(笑)。ショルダーフォンの時代ですよね。

――そうです、ちなみにショルダー“フォン”がIDO、ショルダー“ホン”がNTTの呼び方。1985年にNTTがレンタルを始めて、後にDDIと合併するIDOが1988年に発売します。さすがに当時はまだ法林さんも持っていない?

法林
 持っていないね(笑)。当時のショルダーフォンについて語れる人はレアですよ。僕自身リアルタイムの世代ではないから。ただショルダーフォンの前に自動車電話が始まっていたんだけど、ゴルフ場では電話が使えない。そこでショルダータイプの電話機が生まれた、なんて本当かどうか分からない話を聞いたことがある。

ショルダーフォンの実物

――今、ここにショルダーフォンの実物を用意しているわけですけど、触れてみてどうです?

石川
 意外と今でもイケるな、と(笑)。

一同
 (笑)。

法林
 重いよ(笑)。これを持ち歩くんだよ(※ショルダーフォンは3kgもある)。受話器の下はほとんどバッテリーだからね。

石野
 実は僕はリアルタイムで見たことがあるんですよ。

――えっ?! それはご家族が?

石野
 父が新聞記者をしていたから。仕事で持たされていたんでしょうね。だから使わせてもらったわけではない。通話料も高い時代だから、むしろ「電話をかけるな」「お前触るな」と言われた。

一同
 (笑)。

――当時のショルダーフォンですからね。今の携帯電話とは料金体系自体が違う。

石野
 子供心に「いつでも呼び出されて大変だな」なんて思っていましたよ(笑)。

法林
 ショルダーフォンは縁が無かったけど、ハンディタイプになると欲しいな、と思いましたよ。1991年あたりかな。

石野
 今の衛星電話みたいなサイズですよね。

1989年~1992年――着信はポケットで

 1989年、昭和から平成へ。ベルリンの壁が崩壊し、東西陣営に分かれた冷戦が終わりを迎える。ノートパソコン、ゲームボーイが世に出たのもこの年だ。バブル景気はピークに至り、日本経済が最も輝き、多くの人びとが景気の良さを実感できていたであろう。だが同時にバブル崩壊(1991年)に至り、長い経済低迷が迫っている時代でもある。

 この1990年前後、携帯電話の形も大きく変わった。ショルダータイプから片手で持てるハンディタイプへ、そしてポケットに入るほど小型化が進むのである。さらにポケベルの普及もあり、個人で通信機器を持ち歩く時代が始まった。

携帯電話の前にポケベル、イエデンでデートに誘う

法林
 だけど1990年頃はまだ携帯電話には手が出なかったね。ハンディフォンミニモ(1990年)でもまだ大きくて、ミニモが出てくると(1992年)小さくて本当に欲しいと思った記憶がある。それでもまだ携帯電話は高価だったけど、真剣に持つことを考えた。

石川
 この頃はポケベル(※主に電話番号を通知する端末)の時代かな。

石野
 そうですね。1991年になるともう心はポケベルに。

石川
 だけど自分はまだこの頃はポケベルにも興味が無かったんですよ。

――ポケベルを持たなかったんですか?

石野
 興味はあったんだけどスルーしました。

石川
 自分もそうで。男子校だったからポケベルで連絡したい相手もいなかった。暗黒時代ですよ(笑)。

一同
 (笑)。

石川
 1994年に携帯電話の売り切り制(ユーザーから見ると買い切り制)が始まったときに大学生で、そのとき無料で携帯電話を配っている会社があったので、そこでようやく持つことができた。

石野
 僕も石川さんの後になりますけど、無料で配っていたから持つことができたんですよね。

法林
 それまでは携帯電話1台買うだけでも大変だったんだよね。

――法林さんは携帯電話を持ったのはもっと早いですよね?

法林
 1994年の前に持っていましたね。最初はレンタルでNTTの携帯電話だったかな。次の携帯電話が買い切り制が始まったあとで、その頃にIDOの携帯電話も買って……その頃から複数台持ち(笑)。

――携帯電話を持つようになって、コミュニケーションの形も変わりましたよね。今ならLINEでデートに誘えますけど、携帯電話の無い時代は……。

法林
 まず部屋にイエデン(固定電話)があるかどうかでデートの誘い方も変わるよね。自分の家に電話があるかどうか、という時代ですよ。

左から法林、石川、石野

石川
 中学生のときは相手のイエデンに電話するのがドキドキしましたよ。家族が出たらつないでもらわないといけない。

石野
 親が出たらガチャッ!(切る)。

一同
 (笑)。

石川
 大学生の時も寮に住んでいる女の子に電話をかけたら、本人が出るか、寮の友達が出るか、という緊張があった(笑)。

法林
 イエデンの時代は、外で待ち合わせをするにしても時間がずれたりすると、伝えられないわけ。電車が遅れたりしても電話機を持ち歩いていないから。だから「会えない」というのが当たり前にあったよね。

石野
 駅に伝言板とか無かったんですか?

法林
 あったけどそこまで使わなかったな。そこで伝言ダイヤル、ダイヤルQ2が生まれたんだよね(特定の番号にかけると情報が得られるサービス)。携帯電話の登場でいつでも電話をかけられて、受けることもできるようになり、いつでも人を呼べるようになったというのは大きな変化だよね。

――法林さんはポケベル使いました?

法林
 使ったよ。とくに印象に残っているのがメールアドレスが付与されるポケベルというのがあったんだよ。そのポケベルを使っていると、ポケベルにメールの着信を知らせるなんて機能があった。魚の形をしたポケベルもあったなあ。

石野
 いろんな形がありましたよね。

法林
 ベル打ちもしたね。ビジネスで使っているとベル打ちで短いメッセージを送ることもあった。だけど知らない人は留守番電話のように使っていて、言葉をそのまま送ろうとするんだよ。ポケベルは電話機のダイヤルボタンを押して、ボタンの組み合わせで文字を送るから……それが分からない人もいる、そんな時代だったんだよね。

石野
 僕の場合はポケベルは使わなかったけど、携帯電話の前にPHSがあるんですよね。その頃になるとパソコンも併用していたのでEメールも使うようになり、連絡手段が多彩になった。

法林
 僕もPHSを使っていたけど、データ通信用だったね。32Kとか64Kといった通信。

石川
 社会人になって携帯電話を使うようになり、メールで絵文字が送れるようになると、半角入力で文字数を節約する、なんてこともしてましたね。

――絵文字活用派ですか?

石川
 いやいや基本的なものしか使わなかったけどね。

――今はそんなこと言う人も少ないですけど、元祖“メール新聞”の「INTERNET Watch」をやっていたから、機種依存文字とか許せなかったんですよ。

一同
 あぁ~。

石川
 キャリア間で絵文字の変換が違っていたりね。不便だったけどそれが楽しかったなぁ。

(第2回へ続く)