スマートフォンアプリ開発のツボ

JR東日本に聞く、Android版「モバイルSuica」開発の裏側


 2011年7月23日、おサイフケータイ対応のAndroidスマートフォンで「モバイルSuica」が利用できるようになった。従来型の携帯電話(フィーチャーフォン)向けサービスから約5年、首都圏のユーザーを中心に利用されてきた「モバイルSuica」がAndroidというグローバルなオープンプラットフォームに対応するまで、どのような経緯を経てきたのか。JR東日本 IT・Suica事業本部 モバイルSuicaグループリーダーの杉沢氏と、同グループの山口氏に話を聞いた。

 

2年かけて開発

――2006年1月に、フィーチャーフォン向けサービスが登場した「モバイルSuica」ですが、これまでの5年はいかがでしたか。

杉沢氏
 この7月28日で会員数が250万人に達しました。これまで2007年3月にPASMO(首都圏の私鉄・地下鉄が利用できる交通ICサービス)との相互利用が開始され、2008年3月に「モバイルSuica特急券」、2010年3月に「オートチャージ」提供と、タイムリーに機能拡充を図ってきています。

――Suicaの発行枚数(3月末時点で3297万枚)からすると、1割にも満たない状況ですが。

杉沢氏
 はい。しかし絶対値として、利用者数は右肩上がりで成長しています。また、今回リリースしたAndroid版「モバイルSuica」についても、約1週間で会員数が15万人に達する状況ですから、着々と利用が広がっていると捉えています。

――7月23日のサービス開始から約1週間で15万ユーザーですか。やはりフィーチャーフォン版「モバイルSuica」からの乗り換えが多いのでしょうか?

杉沢氏
 確かに機種変更の方がいる一方、予想以上に新規で登録いただく方が多い、という印象です。

――なるほど。Android版「モバイルSuica」の開発のきっかけは、どのようなものだったのでしょうか。

杉沢氏
 今回の開発を開始する以前、おサイフケータイ機能を持つ携帯電話はフィーチャーフォンしか存在しない状況でした。しかし関係各所へのリサーチ、市場のニーズを分析して、携帯電話市場がスマートフォンへシフトしていくと判断しました。

山口氏
 スマートフォンならではの見せ方や機能追加で「モバイルSuica」の魅力を向上し、会員増に貢献できると考え、開発をスタートしました。

――フィーチャーフォンばかりの市場、ということは、だいたい2年ほど前でしょうか。

山口氏
 はい、そうです。

 

開発時の課題

――オープンプラットフォームであるAndroidですが、開発時はどのような点が課題だったのでしょうか。

山口氏
 Androidは1つのプラットフォームですが、通信事業者やメーカーの対応が大変で、特に検証には注力しました。開発に2年かけたのも、決済機能を備えるアプリですので、慎重を期したということがあります。

――たとえば検証では、どういったことが行われたのでしょう。

山口氏
 基本的に機能全てを検証していますが、たとえば未了復旧、つまり「モバイルSuica」を利用している最中に、途中で何か他のタスクが割り込んできても、復帰した際に正常にサービスが完了するかどうか、といったことを確かめます。Androidはマルチタスクですので、外部からいろいろなイベントが発生することもあります。

 また、今回の開発では「既存のモバイルSuicaユーザーも自然に移行できること」がコンセプトの1つになっていますので、ユーザーインターフェイスもフィーチャーフォン版を踏襲しています。

――開発において、フィーチャーフォン版と比べ、オープンプラットフォームならではの部分はありましたか?

杉沢氏
 セキュリティ面では、当然のことながら、どちらも同等のレベルを保っています。ただ、これまではドコモ向け、au向け、ソフトバンクモバイル向け、ウィルコム向け……と通信事業者ごとにアプリを提供してきましたが、オープンプラットフォームのAndroidでは、そうした通信事業者の垣根を超えて、1つのアプリの開発で済みました。もちろん細かな調整は必要ですが、1アプリで済むというのは、我々にとってAndroid版の利点です。

――同じユーザーインターフェイスをあえて、ということでしたが、現在のスマートフォンはタッチパネル操作がほとんどで、ユーザーの操作スタイルはフィーチャーフォンと異なるところがあります。ユーザーインターフェイスを変更するという選択肢もあったと思いますが、フィーチャーフォン版と同等にした狙いをもう少し詳しく教えてください。

山口氏
 ユーザーインターフェイスについても社内で議論を重ねましたが、(ユーザーインターフェイスを担う)アプリ部分は、「モバイルSuica」の“メイン”ではなく、あくまで脇役です。重要なのは、モバイルSuicaを利用されるお客様の生活がどれだけスムーズになるか。いかに速くチャージしたり、購入したりできるか、といった点でした。

杉沢氏
 モバイルSuicaを利用される場面は、移動中など、あまり時間に余裕がないシチュエーションが多いと考えています。そこで迅速、かつスマートに利用できることを重要視しました。

山口氏
 サービス開始後、Androidマーケットのレビューでは「バックキーで戻れない」といった点を指摘いただいています。これも考えあってのことです。

 開発中、スマートフォンでのアプリ開発は、バッテリーの持ちをいかに長くするかが課題と考えました。そこで、モバイルSuicaアプリを使う時間をできるだけ少なくしようと試みました。「モバイルSuica」は階層が深いため、ハードキーによる「戻る」という操作は、何度も押す必要があり、改善する必要が出てきます。そこで「戻る」という操作は、画面上のリンクに任せる一方、「バックキー」では常にアプリを終了させる形にして、「何度も押す」という課題に対応しました。もちろん、この使い勝手に対して、今後もユーザーからの声を拝見し、ニーズに合わせて対応していきます。ちなみに、パスワード入力ですぐチャージできる「クイックチャージ」を導入したことも、この課題への対策の1つです。

――モバイルSuica対応の基準として、1分間に60人、改札を通過できるかどうか、といった点があるとのことですが、こうした基準は今回変更されていないのでしょうか。また改札への改修も行われていないのでしょうか。

杉沢氏
 はい、改札の改修も行っておりませんし、これまでの基準に変更はありません。

山口氏
 携帯電話上で、おサイフケータイの最も通信環境が良い部分に付く“フェリカマーク”については、フィーチャーフォンでは端末中央に位置することが多かったのですが、ディスプレイが大型化し、薄型化も進むスマートフォンでは、必ずしも中央にあるとは限りません。改札にかざしたとき「うまく反応しない」と感じるようなことがあれば、フェリカマークの場所を確認して、改札にかざしてもらえれば、と思います。

スピーディな使い勝手を重視

――フィーチャーフォン版と比べ、スマートフォン版には新機能が導入される一方、現時点では利用できない機能がありますね。

杉沢氏
 お客様の声を拝聴すると、銀行チャージ(銀行口座からモバイルSuicaへチャージできる機能)に関する指摘が多いと受け止めています。銀行チャージについては、フィーチャーフォン版では4つの金融機関で利用できますが、スマートフォン版では現在、じぶん銀行のみの対応です。その他の3つの金融機関のサービス開始についても調整中です。

山口氏
 当社としては、フィーチャーフォン版で利用できる機能全てをスマートフォンでも同じように提供したいと考えています。

――今回「ウィジェット」「クイックチャージ」といった新機能も追加されました。

山口氏
 以前からチャージ残額が簡単に分かるようにして欲しい、という要望を多くいただいていました。先述したように、モバイルSuicaは、通勤・通学中の待ち時間など、時間に余裕がないときに使われることがあります。そこで、残額がわからなければ利用を控えてしまうこともあるでしょう。そこで、ウィジェットを使って、手軽に残高を確認できるようにし、簡単な操作でチャージできる「クイックチャージ」などの新サービスを追加しました。

ウィジェットはSuicaペンギンとスイカという組み合わせ

――Suicaペンギンとスイカというデザインはどういう経緯で採用されたのでしょう?

山口氏
 今後スマートフォンが男性だけではなく、女性にも広がることを想定し、気軽にホーム画面へいつも置いていただけるようなデザインを意識しました。

――残高表示でスイカが割れるという見せ方ですが、発表時、“Suicaでスイカ”という組み合わせに、「そんなダジャレが」と少し驚きました。

山口氏
 そこは担当者のアイデアで、遊び心が勝ちました(笑)。「JRらしくない」と思われるかもしれませんが、そこはポジティブに受け止めています。

――クイックチャージについて、もう少し詳しく教えてください。

山口氏
 先述したように、「モバイルSuica」アプリを立ち上げる場面の多くは、忙しいシーンが多いため、できるだけ画面を切り替える回数を減らし、すぐチャージできる機能として搭載しました。アプリのトップメニューにクイックチャージへのアクセスや定期券の購入情報などを表示したのも、画面切り替えをできるだけ減らし、利便性を向上させようと考えたからです。

――ユーザーインターフェイスの考え方でもスピーディな利用、という話がありました。そのあたりは「モバイルSuica」の柱になっているようですね。

杉沢氏
 はい、そうした(ユーザー体験の)コンセプトで迷いはありませんでした。

 

ハードルを下げる

――さきほど新規ユーザーのほうが多い、という話がありました。その背景はどういった点にあると見ていますか?

山口氏
 開発時には、「ハードルを少しでも下げよう」と心掛けていました。Android向けおサイフケータイアプリを開発するには、2つのパターンがあると思います。1つは、フェリカネットワークスさん提供の「おサイフケータイ Webプラグイン」を使い、ブラウザから利用するもの、もう1つは今回のように1つのアプリとして使う、というものです。

 どちらで開発するか議論しましたが、ブラウザ版では、推奨ブラウザを決める必要があります。しかし、Androidには、標準ブラウザのほかにDolphin BrowserやOpera、Firefoxなどがあり、さらにパソコンと違って、どれが主要なブラウザか、まだはっきりとはわかりません。ユーザーの利用環境が分散してしまうという面だけではなく、推奨環境を限定することはハードルを上げてしまうことに繋がります。

 一方、アプリ版は、マーケットからダウンロードしてインストール……と、他のアプリと同じ手順で利用できますので、自然と使い方がわかります。そうした点を考慮して開発しましたので、ハードルを下げたところがある程度、新規入会の増加に繋がっているのかな、と捉えています。

ユーザーの声もチェック

――厳しいスケジュールだった、とのことですが、「モバイルSuica」のスマートフォン対応を待ち望む声は認識されていたのでしょうか?

杉沢氏
 はい、ご要望は常に聞こえてきました。初めておサイフケータイ機能を搭載したスマートフォンである、au(KDDI)さんの「IS03」発売時や、他のおサイフケータイ対応スマートフォン向けサービスの登場などの話題があると、「モバイルSuica」の早期リリースを求める声は大きくなったと感じています。5月23日に、具体的なサービス開始時期を発表したことで、その“温度”はある程度下がりましたが、一方で、どの機種で使えるのかという声をいただくようになりました。

 個人的には「高評価をいただけているかな」と思いますが、現在利用できない機能などに対するユーザーの声を真摯に受け止め、ニーズにあわせて取り組みたいと思います。

Androidのバージョンアップは別機種扱い

――今後について伺います。Androidというプラットフォームは、これまでたびたびバージョンアップし、発売後の機種もソフトウェアの更新が行われることが増えてきました。バージョンアップした機種は、発売時と“別の機種”として扱われるのでしょうか?

山口氏
 はい、その通りです。1機種ずつ検証する中で、実は機種ごとのほか、バージョンごとにも検証を行っています。Androidの新バージョンであるIcecream Sandwichが今後登場するとのことですが、バージョンアップする機種はその都度検証していきます。

――もちろんキャリア、メーカーともに一度モバイルSuica対応となった機種については、バージョンアップ後も対応するよう調整されるとは思いますが、バージョンアップ提供開始日とモバイルSuicaの対応時期にズレがあるとユーザーに混乱を招きますね。

山口氏
 そうしたことはあってはならない事象ですから、通信事業者、メーカー、フェリカネットワークスなど関係各所とは情報を交換して密にやり取りしていき、継続してサービスが提供できるようにします。

――ちなみにグーグルや海外メーカーとは、やり取りしているのでしょうか?

山口氏
 グーグルとは、直接やり取りはないですね。海外メーカーとのコミュニケーションは、通信事業者を介して、という形で行ってまいります。

NFCについて

――NFCという新たな近距離通信技術の登場が期待されています。NFCでは、FeliCa対応、あるいは非対応などがあるようですが、そのあたりへの対応はどう見ていますか?

杉沢氏
 現段階で、当社として何かコメントを出せる段階ではありません。もちろん報道などで動向はかなり注視しています。ただ、鉄道事業者としては、今の(FeliCaを使った)方式がインフラとしてかなり広がっています。携帯電話端末の置き換えと、インフラの更新は、機動力という面で違いがあるかなと思います。

――NFC対応で、なおかつFeliCaもサポートする機種であれば「モバイルSuica」を利用できる可能性は高い、ということでしょうか。

山口氏
 FeliCa対応かつセキュアエレメント搭載であれば、理論上、モバイルSuicaも利用できると思いますが、他セキュアエレメントとの競合など、検証は必要と考えています。

――交通ICカード全体の動向として、2013年春に、各地のサービスで相互利用できるようにするとされています。これは「サイバネ規格」と呼ばれる仕様に各社のサービスが準拠しており、Suicaが対応すれば、モバイルSuicaも当然、ということで良いでしょうか。

杉沢氏
 はい、その通りです。この「サイバネ規格」は、鉄道の旅客駅のコードや、ICカード乗車券の規格などの総称です。

――なるほど。本日はありがとうございました。

 




(関口 聖)

2011/8/17 06:00